こうしたブログの文章を含め、一般に言語で理解を完成させることがほとんど・・・
しかし、言語化できないものがあるということを知る大事さについてまとめます。
天外伺朗さんの最近の講演会を聴いて
先月10月末、天外伺朗さんの鹿児島講演会(瞑想会含む)が久しぶりに行われました。
前回の2014年以来、約3年ぶりにご本人からお話しを聴ける機会となったのです。いつものホロトロピック・ネットワークの地方開催で、以前からスタッフ的に関わってもいました。
今回の講演タイトルは、「宇宙の叡智に身をゆだねる生き方へ」というもの。前段の「理性と論理をベースに目標を定めて必死に努力する生き方」に対比するものとなっています。
もっとも、このタイトルは最近出た著書の一節のようで、講演内容はいつもいわばインプロビゼーション(いわゆる即興)的なものです。
〔参考書籍〕
講演の中で、仏教で言う「分別智と無分別智」を医療の世界に当てはめて、この2つは未来永劫一致することはない(科学的証明はできない?)と断言されます。
噛み砕いて言うと、「言語化(科学的に証明)されたものだけが真実ではないし、言語化できないものの中に真実があることもある」意味と理解しました・・・なかなか難しい話ではありますが。
理性や論理を超えて見えてくるもの
こうした考えは一般に理解されないのと同時に、現実の仕事面では一種のタブーとして取扱われる気もします。「それを言ったらおしまい」的な空気で……
逆にそれももっともなことで、理性・論理で説明ができないことを現実世界で取扱うことはできないとも言えます。例えば、それを言い訳に具体的に行動しないと本末転倒だと……
つまり、そうした現実にしっかりと立った上で、なおもそれを超えて見えてくるものを無視しないことが大事と言えます。
当てはめる局面が違うというか、人の生き方や現実の理解に柔軟性を持つと言うか・・・
ともかく、あまりに理性や論理だけに偏った人や社会は、かえって人が求めるものから遠ざかってしまうのではないかと直感的に感じるのです。
「凡夫のあさはかさ」も意識しながら…
こうした考えは、ほぼ紹介した天外伺朗さんの受け売りとも言えますが、個人的に現代社会の違和感への答えだと納得したのです。
その入口は、以前ブログで取り上げた天外氏の「人間性経営学」シリーズの著作でした…。
講演の中にもあったフレーズで、仏教的表現で「凡夫のあさはかさ」が象徴的です。凡夫(ぼんぶ)とは思慮の足りない人ですが、現代社会で優秀とされる人でも完璧ではないかもしれません…。
私自身は凡夫か何かわかりませんが、「凡夫のしたたかさ」は足りないのかも・・・冗談はともかく、つい理性・論理だけに偏ったら、これを意識してみるのも一つの方法でしょう。
繰り返すと、言葉にできるものだけでなく、できないものとを両方知ることが大事かと……
〔あとがき〕
今回取り上げた天外伺朗氏の講演会では、質問の時間も取られて幅広い内容となりました。
話題は変わりますが、先日記事にした霧島山の規制が先月末に相次いで縮小され、急きょ呼びかけて、週末に甑岳を歩いてきました。(*今回の写真は、その日の様子から。)
近頃のGood & New
・焼肉わきもと(霧島)